先日2026年10月3-4日に神戸大学で行われた日本教育方法学会のシンポジウムでは、オラシー教育で著名なケンブリッジ大学の名誉教授のニール・マーサー氏(Neil Mercer)が来日され、その講演が中心となった。
指定討論者として神戸大学附属小学校の先生と僕が話をさせてもらった。通訳も入っていたのだけれども、休憩が必要ということで、僕のところだけ、日本語と英語で自分で話すということで、自分のオラシーが心の底から問われることになってしまった。
「オラシー」(Oracy)とは、「話し言葉」の教育であり、いわゆる「リテラシー」(Literacy)が「書き言葉」であることに対置する機能を持っている。日本では「ことば」についての学校教育は基本的に「書き言葉」であることが圧倒的に多い。これは伝統的にそうで、たとえアカデミック・ライティングではない生活を基盤にしたことばの教育であってもそうだ。生活綴方も、日記指導も、子どもたちの生活をもとに、それを「綴る」「書く」ということで、言葉を書くことに中心は置かれてきた。その点で「リテラシー」の教育が念頭にあったように思う。
話し言葉という点では、日本ではこちらは、近年の「言語活動」重視の教育が台頭してくる中で、授業の場面を中心に、考えたことが中心となり、これをクラスの中では「○○さんと同じで……」「○○さんと似ているんだけど……」というように、友だちの意見と関連づけながら個人の言葉を共同体の言葉として練り上げ、積み重ねていく教育が、「話し言葉」といえば念頭に上がりやすい流れというのはありそうである。(ただし後述するように、それだけではないのだが)
こうした中で、「オラシー」という教育概念の面白さは、こうした話し言葉を、「授業」の中だけの言葉ではなく、いろいろな話者の「話す」ということを認め、大事にしていくことが込められている教育概念であることだろう。つまり、「主流」の話し言葉だけではなく、例えば、方言や、外国の人の話す日本語、さらに手話なども含まれるとおもわれる。つまり、「どの場面のジャンルの話し言葉か」というような、授業の場面、思考の場面、生活の場面といった場の問題だけではなく「どのような話者の話し言葉か」ということも概念に含み込まれている、そうした権利の教育の面が前に出ているところが重要だろう。
こうしたことをふまえて、指定討論では、「オラシー」の教育の範囲はどこまでかということを軸に指定討論をおこなった。

オラシーを「①話者」の話すことの教育と置くのか、「②話者と聞き手」の話すことと聞くことの教育と置くのか、「③関係と共同体」としての、話す権利と聞く責任の教育として捉えるのか、この3つの視点は大きく異なっている。
本来、マーサー氏のオラシー教育の視点は、必ずしも「話す」だけに置かれてきたわけではない。共同的思考や対話を中心として論じられる理論系は、「話すことの教育」に閉じているわけではない。ただ、日本でそれを受容するときには、これまでの流れの中で、どうしても①か、よくて②の実践が中心になってしまうことも多くあるのではないだろうか、ということが気になっていた。
なぜなら、これは上に書いたように、日本での「話し言葉」の教育の中心が、すくなくとも現代では授業の場における思考面の重ね合わせのあたりに中心がおかれているからかもしれない。
またここが気になってしまうのは、自分自身が教育研究の柱の1つとして、外国につながる子どもの教育を行っていたり、自分自身の教育実践としても、社会言語学的な言語教育を教員養成で行っていたことや、広域交流型オンライン授業の共生授業を「多様なことばの実践」として行ってきたからかもしれない。
実際の討論では、
- QUESTIONs) In thinking about Oracy, 私たちはオラシーについて、
- How should we position the ③ education?
③をどう位置づけるのか? - What would education for the ③ look like?
③の教育はいかなるものになるのか? - Where do Tomonaga’s practice and the Japanese tradition of Learning Group Formation fit within this framework?
例えば友永実践や学習集団論はどこに位置付くのか? - Can the ③ type be evaluated? ③は評価が可能か?
ということを問うたわけだけれども、いずれにしても、この点を乗りこえていくことができると、オラシー教育のとくに実践面はおもしろいだろうなと思っている。
乗りこえかたのヒントとしては、それこそ「綴り方教育」がになってきたような社会と生活を「綴る」実践の中にもあるかも知れない。実際、生活綴方や学習集団論、生活指導の実践には、子どもの生活と社会的な声を共同体に位置づける実践も蓄積されている。また、自分自身がやってきたような社会言語学的な言語教育を教員養成で行っていたことや、広域交流型オンライン授業の共生授業も、こうしたことにつながるヒントになるのかもしれないな、と思っている。
いい刺激をもらったシンポジウムだった。

