日本語教育学会大会2021春 パネル振り返り

日本語教育学会春季オンライン大会2021。
パネルセッション,南浦涼介,三代純平,中川祐治,石井英真による「ナラティブによる実践の可視化は何を生み出すのか―評価と社会関係構築の結節点」でした。

  1. 本パネルセッションの趣旨
  2. 事例1 留学生教育―産学協同プロジェクトにおける実践の可視化(三代)
  3. 事例2 地域日本語教育―福島県の蓬莱日本語教室の実践から (中川)
  4. 事例3 年少者日本語教育―取り出し教室での作文翻訳がもたらす承認 (南浦)
  5. 論点―個体能力主義的量的評価と関係論的質的評価の二元論を超える(石井)

を動画ですでに視聴しているという前提で開始から30分間の議論の時間でした。が,思っている以上にあっという間でしたし,すべての質問にも応えきれなかったです。僕は司会的な役回しもあったのと,その場でうまく応えられなかったものもあって,ちょっと振り返りながら書いてみたいと思います。


最初の質問の「評価そのものよりも,むしろ社会の価値を更新していくことが重要」というのはまさにその通りだと納得し,よくあの短い中でそこまで思い至ってくださったことにありがたい限りでした。
いっぽう,個人的には日本語教育の近年の潮流を見ると,どうも「社会の価値をいかに更新していくか」が前面に押し出され(それはとても重要な話です)る一方で,それを具体的に実現していく教育のペダゴジーの視点は十分に検討されてきてないようにも思っています。ペダゴジーというと内容と方法が浮かぶ。
けれども,その中でも「評価」に視点を置くことは,実践を外側と共有し,実践についての対話を生み出し,そこで間主観的に実践に価値と意味をつくりだしていくことを考えられるようになる。
「評価」はそうした実務の行為だからこそ,却って教育がどのような形で社会の価値の更新につなげていけるかが具体的に見えやすくなるのではないかと思っています。
(他方で、「評価」が持つ「力をどう見取り、どう生かすか」の内実の検討も合わせて必要)


2つめの質問でもあった「日本語教育における実践研究で議論されてきたナラティブと,評価としてのナラティブの違い」も改めて整理する必要があるなと思いました。
うまく応えられてなかったのですが,実践共同体の内部での価値交換や成長のためのナラティブと,実践共同体の外部との価値交換のためのナラティブの違いなどもあるのだと思います。
石井さんの生活綴方教育を事例にした実践を綴ること自体の意味と,それを社会と共有していくことの意味との連続性と差異性の話は,同じ科研メンバーなのに今更ながらなるほどと,改めて感じました。


とはいえ,日本語教育のみならず,学校教育でも「評価」という用語は揺れる。
「見とり」「評価」「評定」と異なる意味が混ざっているし,さらに日本語教育では従来から評定測定の意味で捉えられることも多い。さらに言語能力判定の視点が多いために「評価」の話は議論の共有基盤がつくりにくい。
でもこうした視点が,結果として教師を「評価の消費者」「評価に使役される者」に収められてしまうのではなく,むしろ戦略的に評価を飼い慣らしていき,「評価の生産者」「価値の生産者」として埋もれがちな実践とそこで学ぶ人の価値をつくっていく可能性にむけて,もう少し洗練させていきたいなと思います。
それは日本語教育に限らず、本来学校教育も含めて重要な検討課題であるはずで。