【本】窪島務(1996)『現代学校と人格発達─教育の危機か,教育学の危機か』

積読中だった窪島務氏の『現代学校と人格発達─教育の危機か,教育学の危機か』(1996年, 地歴社)amazon.co.jp/dp/488527138X をようやく読了。
1996年の、僕が高校生のときの本なのに、今の本じゃないかというくらいの内容の予見度。いや,30年前と今とを比べて,教育をめぐる状況,多様な子どもたちをめぐる教育の状況はどこまで変わったのだろうかと思わされる。

特別なニーズをもつ子どもたちの教育がメインフィールドの筆者であるが,本の内容はそこに留まらず──いや,そこにある問題は後述するように,結局のところ多様性の教育を教師の働き方問題、課程認定システムという学校システムにまで深く根ざしている。だからこそ,本の中で多岐にわたって絡める視点の広さ深さには敬服する。


重要なところは数多あるのだが,僕が非常刺さったところの1つが,本文ではないけれど p.160 の注15(この本は注が豊富でそして長い。こういうの最近減ってきたけど,この時代の教育学の本の特徴でもあって,筆者の本当に言いたいことは注にあるのが面白い。)

「筆者は障害児教育の国際比較をするなかで,各国の障害児教育の実態のちがいを規定する要因がどこにあるかを考えてきた。そこでわかってきたことは,障害児教育のありようを規定する力は,障害児教育の内部に自立的に存在するのではなく,むしろ,通常の学校のありようによって,障害児教育がいかなる姿を取るかが基本的に規定されるということであった。したがって,障害児教育だけとりだして,障害児教育はこれこれの特徴がある,といったところでそれは単なる現象の特徴を述べたにすぎず,なぜそうなっているかをまったく説明しない。そして通常の学校の教育課程・内容・評価の基本的性格を端的に規定するものは,進級・卒業認定・資格付与のシステムである」。

窪島務『現代学校と人格発達─教育の危機か,教育学の危機か』 地歴社, 1996年, p.160. amazon.co.jp/dp/488527138X

これは,現在の外国人児童生徒をめぐる教育でも同じだなと思う。

例えば,日本語指導の場において非常勤の加配の先生が現実には多いことが思い起こされる記述だ。
近年,外国につながる子どもたちの教育は多くフォーカスされるようになり,特にその解決の手段としても日本語指導の充実はよく謳われる。ただ,そこの先生が学校の中の教育課程や内容,評価にどのように主体的なアクセスができるかを考えると,はなはだ心許ないものがあることも事実だったりする。日本語指導の場は重要であるけれども,そこに課題解決を全て押し込めようとするのはなかなかに苦しいものが残る。

窪島氏のこうした分厚い本は,もう1冊,『発達障害の教育学─「安心と自尊心」にもとづく学習障害理解と教育指導』(2019年, 文理閣)http://www.bunrikaku.com/book1/book1-838.html もある。こちらもいつか紹介したいが,ほぼほぼ外国人児童生徒教育も同じ構造の中にあることがよくわかる。
実は学部時代の大学の先生なのだけれども,専門学科が違っていたことや,僕自身が当時はただのおサボり大学生だったこともあって,その教育を直に受けることはなかったのだけれども,勝手にたくさんの宿題をもらった気でいる。

こうした本を読むにつけ、自分はほんまに勉強足りないなぁと思う。えらそうにね、シンポに出たり、研修したりしてる場合じゃないですよと、心底思う。