教育研究における記述・経験的研究と規範的研究

先日の院生ゼミ・学部生ゼミとも,研究アプローチについてとなりました。
みなさんは,研究というとどのようなイメージを持つでしょうか。調査をして、アンケートをして,インタビューをして……というような感じが先に出ることが多い気がします。こうした研究をよく「経験的」とか「実証的」と呼びます(厳密に言うと,客観的な仮説や効果のようなスタイルだと「実証」と言うことが多く,もう少し質的なものをイメージすると「経験的」と言うことが多いです)。いずれにしてもこうしたスタイルは「記述的研究」という範疇にはいります。

ところが教育学研究には,いわゆる記述・経験的(実証的)研究だけでなく,規範的研究があります。教育研究はこの両者ともに見すえておくことはかなり大切です。多くの「研究方法入門書」では,この「規範研究」の側面が捨象され,単に量的-質的研究の違いなどに焦点が置かれることがあるのですが,教育学の方法論はそれだけでは捉えきれないことが多くあります。

例えば,外国人児童生徒の教育もそうなのですが,その研究分野が社会学や言語教育の分野から始まったものは,その分野自体が記述・経験的(実証的)研究ベースであることもあって,結果的にそのほとんどが実証研究で描かれています。

もちろん1つ1つの研究には価値があるものだと思いますが,一方で研究分野自体が研究を前者の世界観でしか捉えていないと,学生が後者を知らないままになってしまいます。教育に関わる研究をするにあたってこれは本当に勿体ないことだと思うし,可能性を縮めてしまいます。なのでこの「地図」をどう持つかは,教育研究にとって重要です。

基本的には両者の違いは以下のようになります。

記述的・経験的(実証的)研究

「今・ここ」でどうなっているのかを知りたいということが中心になる研究です。

この問いのもとで大事になるのは,「seeing but unnoticing」(見えているけれど気づいていないもの)を可視化することです。多くの人文社会系の学問はこの問いによって成り立っています。言語学・心理学・社会学などもこの範疇に入ることが多くあります。

この問いを明らかにするためには,実際の場における「調査」が重要になります。いわゆる「量的研究」と「質的研究」もこの中に入ることが多くあります。アンケートで量的に「どうなっているのか」を捉えたい。インタビューで質的に「どうなっているのか」を捉えたい。観察で「どうなっているのか」を捉えたい。という形で研究は進んでいきます。

この発展系の中に,「今・ここ」に対して「何らかの実践的行為を行ったら」「どうなっていくのか」を捉えたい。というものも入り込みます。心理学などでは「介入」と呼ばれる方法論はここになります。教育学では「実践を行って検証をする」ような発想はここに当てはまることが多いはずです。

規範的研究

「今・ここ」をどうしていけばいいかを知りたいということが中心となる研究です。

この問いのもとで大事になるのは,「今ここにある課題や問題をどう変えていけばいいのか,変えていく方向性の手がかりを知りたい」というものになります。社会のあるべき形を追い求める学問は,この方向性を持つことがあり,哲学,政治学,教育学はこうしたタイプの研究が多く出てきます。

この問いを明らかにするためには,たしかに「調査」もあるのですが,その調査は実際の場におけること以上に,「今・ここ」にある文脈とは異なる場所(あの時・あの場所)に目線を置くことも多くあります。過去のある時代において為されていた実践の営みはどのようになっていたのかを探る。制度の異なる国外においてどのような取り組みが為されているのかを探る。そしてそこにある大きな発想の原理を明らかにする。それを知りながら,「今・ここ」との比較検討を通して,改善の手がかりを検討していく。という形で研究は進んでいきます。

こうしたタイプでも「実践」的な研究もあります。ただその場合は,具体的な実践を行う以上に,見いだした原理をもとにして,それをやや具体的な形で「モデル」を提示することが重要になります。教育でいえば,指導の観点,授業構成の発想,カリキュラムづくり観点の提示,さらにそれを例示として具体化する作業などがこうした規範的研究における「実践」との関係性になります。(それをもとに実際に行ってみてどうだったかを探る研究を行うとそれは「経験的研究」に移行していきます。

記述的・経験的(実証的)研究規範的研究
根源的な問いの発想「今・ここ」でどうなっているのかを知りたい
「どのように」の研究
「今・ここ」をどうしていけばいいかを知りたい
「どうすべき」(目的論・規範論)の研究
研究の進め方アンケートで量的に「どうなっているのか」を捉える。
インタビューで質的に「どうなっているのか」を捉える。
観察で「どうなっているのか」を捉える。などの実地の調査を重視して検討していく。
「今・ここ」にある文脈とは異なる場所(あの時・あの場所)に手がかりを求める。
そしてその歴史や海外などにある発想の原理を明らかにする。
それをもとに「今・ここ」との比較検討を通して,改善の手がかりを検討していく。
「実践」との関係性心理学における「介入」の研究。
教育学における「実践を行って検証をする」ような研究。
「モデル」の提示。
見いだした原理をもとにした「モデル」化。
教育でいえば,指導の観点,授業構成の発想,カリキュラムづくり観点の提示や例示など。
研究としての妥当性一般化や普遍化による妥当性(外的妥当性)や手続的妥当性(内的妥当性)による検証性の重視論理的妥当性による論証性の重視
それぞれの研究の特徴とその比較

教育の研究はこの両者が常に混じっています。「記述的・経験的」な研究ももちろん大切ですが,「規範的研究」が大事になるのは,教育は意図的な営みである側面を捨象することができません。そのため,「どのような方向性を見すえて教育を行うのか」という方向性の議論,置くべき目的についての議論が欠かせないのです。規範的研究はそうしたことから必要になります。

みなさんは,何を見すえて,何のために研究をしますか?

研究は現場に資するのか? アプローチと乖離の関係

なお,「現場に資する研究」というのはどっちでしょうか。これはどちらも貢献性はあるけれど,「貢献のしかた」は異なっていることも分かりますし,「貢献のしなさ」も異なっています。よく「研究と現場の乖離」ということが言われますが,「記述的・経験的研究」における乖離のしかたと,「規範的研究」における乖離のしかたは違います。

前者(記述的・経験的研究)では,往々にして「研究する人間がデータを現場に搾取しにいく問題」として乖離が発生することがあります。つまり,アンケートをしたりインタビューをしたりして緻密な分析によってわかったことは「そんなことは現場の肌感覚で分かっている!」と言われることが多くあるからです(とはいえ可視化されたその知見は重要です)。またそれ以上に,「データへ関心はあっても現場への関心(一緒に歩もうとする,変えていこうとする)関心はない」などが乖離を作っていきます。

後者(規範的研究)では,乖離はもう少し別の形で生まれます。それは,「その海外や過去でおこなわれている/いたことはわかったけれど,それは素敵な取り組みだけれど,私の現場ではできない」というような提示された原理やモデルと,現場での実行可能性の距離の問題として現れます。それは,現場自体が制度や文化の中に埋め込まれているからこそ起きることだともいえます。

いずれのアプローチも,現場に資するという側面と,直接的な貢献にならない側面と,その両者が存在しています。

だから研究は意味がない。ということではないでしょう。私自身は現場との関係性で言えば,「同じ山を違う装備で登る者同士」だと思っています。
実は,「この場をよくしていきたい」という願い自体は共通しています。それを大切にしながら,お互いの見えるもの,持っているものをどう交換していくかが大切ではないかな,と思っています。
「研究が現場をよくしていく」というのは実は研究者以上に,その現場の人がもちやすいものでもありますが,それは「直接的な貢献関係性」ではなく,互いに交換しながら次第に変わっていく「間接的な交換関係性」なのだろうと,僕は思っています。