授業をつくる 学級・学校をつくる 地域をつくる 多様な人が共に生きる
「教育」のビジョンを持ってそのカタチをデザインし、実践できる人を育てる研究室です
さらに、外国につながる子どもたちに代表されるように
多様なことばと文化を多様に持つ人たちも共にあり、いっしょに力を育むにはどうしたらいいかを考えています
ときどきの研究室ノート 10/28
ほんの少し前のこと。小学校で、院生時代からお世話になっている先生の社会科を見る。
「最後の授業公開です」と言われてからもう数回あったので、まだあるかもなと思いつつ、「2月の授業のリベンジと、私なりに、個別最適化の授業のあり方に挑戦してみました」とメールで案内をいただいた。
僕は1人の参加者として学生とともに見学。
先生の授業は、教材研究の深め方で知られている。でも、僕は今日の授業を見て、今の時代にとても貴重なのは、次のことだ。
よく学校現場では、「今日はこれができたらOK」のような言葉がでる。今日の授業でどんな力がついたのか、目標は何で、どんな効果があったのか、その良し悪しは何か…などなど。
でも、おそらくこの先生は何なら「できなくたってOK」と思っていそうだ。この感覚はたぶん、間違いない。
「できる/できない」とか、「わかる/わからない」とか、そういうところに、そもそも重きは置かれていないのだ。
教室の後ろで男の子たちが数人で配られた資料を自由に見ている。
この先生の声は基本的には静かだ。ひょっとすると後ろまで声は聞こえていないかもしれない。何より今日は子どもたちが司会をしていて、だから余計に「発問」は届いてないかもしれなかった。
でも、不思議と資料をパラパラ見ながら、次第次第にそれが授業の中心のところに議論がうつっていく。
焦土となった広島の、司令部も消えてなくなった中で、軍の秘匿兵器まで用いて救援に向かう暁部隊の責任者の立場から、「君たちはどう生きるか?」を問うて、助けるでも,やっぱり逃げるでも,わからないが答えでもいい。45分が終わる。
できるでもできないでもなく。
わかるでもわからないでもなく。
でも心かお腹かに、少し熱いものを持って子どもたちは帰る。そこにある「熱」の在処はなんだろうか。
こういう授業を、「ねらいにまっすぐ向かう」ものを良しと学んできた学生たちが、四年生の実習直後に目の当たりにできる。これは、今の時代にほんとうに有難きことだ。
島に吹きはじめた秋風にも、今日見たことの熱はまだしばらくは冷めないでいてほしい。
――「そうじゃないかと」って,プーのやつ。





