そういえばアップルの本をちゃんと全部読んでいるわけではないなと,論文を書いていて思い,未読のこの本。
アメリカのアップルとイギリスのウィッティと長尾彰夫氏の共著。1990年代(気分としては1980年代後半頃も含めて)の時代の空気をしっかりまとわせて米英日の三箇所から,レーガン・サッチャー・中曽根政権の頃の,今に続く市場主義(新自由主義)の教育改革の動き。またそこにある保守主義的なものが,上手に「マイノリティ」の支持も獲得しながら教育改革を進めていく動き。これらが改めてよくわかる。
ウィッティが述べる,保守派の「すべての子どもが『英国の社会を充分に楽しみ,その社会を増強していくために必要な知識と理解力を与えられるべき」という主張が,一見多様性の尊重に満ちあふれた優しい言葉にみせながら,実のところそれ自体が「ただし市場競争の中で平等に泳いでつかみ取れるならば」という留保が存在して,実は個人の格差の解決にはなっていないし、学校の格差はさらに広がることの指摘。
これは今の日本の,例えば関西の政治主導の教育改革が,富裕層だけでないところからも、「下には下を見る」構図で大きな支持を得ていく構造とリスクが,この時点で見事に言い当てられていると改めて思う。
アップルの「日本の読者へのあとがき」として,「日本の学校教育において被差別部落の人々,在日韓国朝鮮人,及び外国人労働者の子どもたちの経験はカリキュラムと権力を結ぶ複雑な諸関係を,より一層真剣に考えることの重要性」を言いながら,かつ「しかしながら,ナショナル・カリキュラム(注:ここでは学習指導要領)とそれに基づいて教えられる知識や価値への問いかけこそが重要なのである」(p.64)という言葉。
これもアメリカに住んでいるアップルをして,すでに30年先の日本で外国人児童生徒の教育研究が充分にそこに切り込めていない現実にすでに言及されているように思えてならない。(上のウィッティの指摘も,「日本語指導」の充実という施策が国から出されても,それ自体が「多様性の尊重に満ちあふれながら実は格差の解決になっていない」落とし穴を浮かべてしまう)
僕はカリキュラム学を院生の時からしっかりやっていたわけではないので,アップル・ウィッティだけでなく,長尾彰夫氏のこともようやく理解できた次第。「訳」じゃなくて「共著」というのをこの時代におこなったのは素直にすごいなと思った。