「教育課程論」の授業での「ダイバシティとカリキュラム」

授業を「授業」で考えるのではなく「カリキュラム」で考える

養成段階の学生であれ研修であれ,新しい試みの事例を紹介すると「こういう授業をするのは魅力的だけれど,とてもこんな授業は私にはできない」という反応はいつも存在します。

これはごくごく自然なことだと思う。ただ同時にこれは,見せられた事例の授業を「授業」の枠で捉えてしまっているからだよな,ともつねづね思っています。

授業を「授業」ではなくて「カリキュラム」で捉え,「授業を成立させている学校づくりや教室づくりの前提」に目が行くかどうか,そういう形で考えさせているかどうか――というのはとても大切な視点です。

先日の「教育課程論」の授業は「多様なニーズを持つ子どもたち」と「カリキュラム」の観点をあわせていくための時間。中心に外国人児童生徒をおいて考えました。ここでは外国人児童生徒の教育ではなく,あくまで「多様なニーズを持つ子ども」の包摂の視点として。

こういうときにも,単なる「配慮」の話は納得を得られやすい。でも「設計」自体を考え直すようなモディフィケーションの視点を入れると「できない」反応は途端に増える。そこでこんな方法を採りました。

教育課程論における「ダイバシティとカリキュラム」の授業

①自分たちが何かしらのマジョリティなことを知る活動

まず最初は,学生たちも僕も,自分たちが多数派なのか少数派なのかをざっと考えて見る時間を取りました。(隣の人には見せないように)自分自身を書き,社会の中でそれは多数派か少数派かを考えて見る時間。(その後感想を隣と話しあう)

最初は僕が僕のものをみせました。40代のおっさんの先生です。圧倒的なマジョリティなのかもしれないねえと話していました…。

②言語と文化の包摂の発想を事例を通して捉え「配慮で応じる」と「設計で応じる」の違いを知り,「配慮はできるけど設計は難しい」感覚を共有する

その後,外国人児童生徒についての教育の概要を話ながら,それを「みんなで学ぶ」空間でどう対応するかの事例を3つ,読んでもらい,それらがどう違っているかを考え,まとめていきました。

その上で,大きくは2つに分かれ「対応的発想」というアコモデーションに根ざしたものと,「設計的発想」というモディフィケーションに根ざしたものがあり,前者はやりやすそうだけれど,後者は難しい。という感覚をみんなで共有します。なぜ難しいかというと「一人ではできなさそうだから」「すぐにはできなさそうだから」…そう,だからこそ「カリキュラム」に根ざした問題なんだよね,ということを共有する。

③定時制高校の実際の授業を見る

じゃあ実際に授業を見てみよう,ということで,授業を見る活動に入ります。

取り扱った授業は,定時制高校で実践をされている伊藤晃一先生の「古文」の実践です。
定時制高校という中で,外国につながる生徒も含めて色々な生徒がいます。そうした中で,この授業は高校生の後半にさしかかった頃の古文の科目の授業。「平家物語」の単元の2時間です。

授業は別のクラスで行われた「外国の人が聞いた音を外国の人はカタカナでどう書くか?」からはじまり「何を表した音でしょう」クイズからはじまります。
その後,「みんなも動画で見た音(キリンの鳴き声,飛び込みの音など)」をカタカナでリアルに表してみよう」にうつり,みんなで共有して1時間終わり。その後「昔の人は音をどう表していたのか?」に入ります。

その後,平家物語における「音」をみんなで見ていきながら,まず今日は最初に平家物語の一番最後の「能登殿」のシーンを見ていきます。そこで能登殿が源氏の武士を突き落とすシーンに書かれた音と,能登殿が入水するシーンの音が白抜きで抜かれているところを,「何て書いているんだろう」と問いながら(実際前者が「どう」,後者が「つつ」),「なぜこの表わし方なんだろう」「どうして『つつ』なんだろう」を考えていくという展開です。

④ ③の授業は「配慮で応じ」ているか「設計で応じ」ているかを考える

さてこれを,最初に考えた,「アコモデーション」と「モディフィケーション」で考えて見ると,伊藤先生の授業はどっちだろう,どの要素が入っていただろうを考えて行きます。すると,たしかに,「対応」の視点はたくさんあるのだけれど,どうもそれだけじゃない気がしてくる。それって,何だ?

そこから,⑤の「なぜできていたのか」を考えて行きます。


⑤なぜこういう授業ができていたかをカリキュラムの視点から考える

なるほどそうか,こうした授業ができるのは,それまでの関係づくり,学校づくり,学校の特性がいろいろ重なり合っているからこそなんだな。だからこそ「高校生最後だから」という話が最初にあったんだな,ということに思い至っていきます。

先生の雰囲気もあいまって,さらにそれを5のようにカリキュラムで考える。かつ1のように冒頭で「自分たちのマジョリティ性」をふまえていたこともあったからか,こうしたテーマで起きがちな「少数派に視点を持つことがどこまで大事なのか」という言葉自体が「……いや,それは自分がマジョリティだからか…」という思考も喚起させてブレーキになる面。さらにモディフィケーションの視点を持つことで「配慮しすぎはしんどい」という発想自体を,設計で応じていくことの面白さで包んで長期的な視点を持てることで納得を得られる構造にもなったようです。
ずいぶん授業を「カリキュラム」で捉える言葉が増えたように思います! 一見大変むつかしそうな「古典」という題材だからこその共感もあったような。

今回の伊藤先生の実践は,現在行っている科研「『言語的感覚に優れた教師』育成の教材開発―言語的な多様性を包摂する教室に向けて」の一環で取材したものでもありました。しかしこの「言語的感覚に優れた教師」ということの内実自体も,実はやっぱり,教師のスキルや授業の枠組みだけの実践で見ることはできず,その「学校」の長いカリキュラムの目線をふまえて捉える必要がないかと最近思っています。