[視点①]学校と先生のための「やわらか」教育方法学

『教職研修』で、2024年度から「続・やわらかキョウイクアタマ」「続々・やわらかキョウイクアタマ」というミニコラムを連載しています。2026年度からは、元祖「やわらかキョウイクアタマ」を連載されていた神戸大学の赤木和重さんと、交互に担当しています。

この連載では、学校や授業、子ども、教師をめぐる日々の出来事を、できるだけやわらかなタッチで見つめ直しています。ただ、その背後には、僕自身の「やわらかい教育方法学」とでもいえる視点があります。

2000年代以降、学校と教師の世界では、目標を立て、評価し、効率的・効果的に能力を育て、その成果を説明していくことが当たり前になってきました。もちろん、すべての子どもに高度な学力を育むことは大切です。けれど、その一方で、教師としては「本当にこれだけでいいのかな」と立ち止まりたくなることもあります。そうした前提の中で、子どもも教師も、少し疲れてしまうことがあります。

誰に対しても深い学びや高度な学力を育むためには、実はもう一度、子どもがどのように世界を捉えているのか、その育ちをどう見とるのか、どのような関係や場によって支えていくのかを見つめ直す必要があります。力を育てることと、子どものすがたを育むことは、切り離せるものではありません。

このページでは、連載で扱ってきたテーマを、南浦研究室の教育方法学の視点から整理しています。タイトルを眺めながら、「あ、そういえば」と問いの入り口が少し見えてきたり、学校や教師としての自分にふと重なるところがあったりすれば、うれしいです。

*あくまで整理なので、項目は複数の視点にまたがっているものもあります

視点1 子どもの「すがた」と時間を見直す教育学

子どもを「できる/できない」「力がある/ない」だけで見るのではなく、その子がどのように育っているのか、どんな時間を生きているのかを考えるコーナーです。

大人はつい、授業や成長をまっすぐな時間の流れで考えがちです。けれど、子どもの学びや育ちは、指導案どおり、仮説どおりに進むとは限りません。ずっと後になって意味がつながったり、遠回りのように見える時間の中で大事なものが育っていたりします。

ここでは、子どもの人生の山場を10代前半に置きすぎず、もっと長い人生の中で成長やレジリエンスを捉えてみます。また、教育の目標を「ちからづくり」だけでなく、「すがたづくり」――その子がどのような人として育っていくのか――という視点から考えていきます。

視点2 授業を「意味の生まれる場」として見る教育学

授業を、目標が達成されたか、教科内容が正確に扱われたかだけで見るのではなく、その場でどのような意味が生まれていたのかを考えるものです。

授業には、子どもと教師のやりとり、思いのズレ、ふとした場面、あとから思い出される声や表情があります。そうした一つひとつの中に、授業の面白さや価値が隠れていることがあります。

ここでは、教育研究を「よい方法を開発して広めること」としてだけでなく、実践の中にある面白さを見つけ、その価値やしくみをみんなで共有していく営みとして捉えてみます。授業写真を、場面や姿や声の記憶を呼び戻す道具として考えること。模擬授業を、教科目標に向かう「縦軸」だけでなく、子どもと教師の感じ方が交差する「横軸」から見てみること。そんな視点から、授業という場を見直していきます。

視点3 ことばの結ぼれをやわらかく解きほぐす教育学

ことばを「正しい形」で使えているかだけでなく、人と人との関係や、その場の文脈、世界との出会いをつくるものとして考えるものです。

名前、読み、あいさつといった身近なことばのやりとりには、子どもがどのように人とつながり、自分の世界を広げているのかが表れます。たとえば、あだ名やニックネームをめぐって、実名か匿名かの二択ではなく、その子らしさを帯びた「固有名」の世界から、学校広報や子どもの名前の扱いを考えてみること。「くまのプーさん」を通して、正しく読み取ることだけでなく、その子なりに物語の世界に触れ、一緒に喜ぶことを「いっしょに読む」として捉え直すこと。定型的なあいさつの中にも、「あなたに伝えている」という視線と言葉のつながりがあることで、コミュニケーションが生まれること。

ここでは、ことばを正しさのものさしだけで見るのではなく、関係を結び、場をつくり、子どもが世界と出会うためのものとして見直していきます。

視点4 評価・承認・価値づけを問い直す教育学

評価を、測定・判定・説明責任のためだけのものとしてではなく、子どもや教師のよさを見つけ、応答し、価値づける営みとして考えるコーナーです。

評価というと、どうしても点数をつけること、できたかどうかを判定すること、外に向けて説明することが思い浮かびます。もちろんそれも大切です。けれど、教育の中の評価には、目の前の子どもを認めること、その子の成長に応えること、自分や他者のがんばりを受けとめることも含まれています。

ここでは、外国につながる子どもたちをめぐる教師同士の語りが、つい「課題ありき」になりがちなことを手がかりに、具体的な子どものよさを語ることの意味を考えます。また、人は自分のがんばりを数字で示したくなる一方で、人事評価にはどこか抵抗感を持ってしまう。そのずれから、気持ちのよい相互評価とは何かを考えていきます。

視点5 学校文化・教師文化をほどく教育学

学校や教師の世界を、外からの批判や要請にただ防戦的に応じるものとしてではなく、その内側にある身体感覚や文化、専門性から捉え直すものです。

学校は、社会の変化や学校外からの期待に向きあう中で、ときに固くなってしまうことがあります。けれど、教師の仕事には、子どもの様子に即応する力、場を動かす感覚、集団を見ながら一人ひとりに関わる専門性があります。そのよさを見つめると同時に、熱量やノリのよさが、時にマウントや排除につながってしまう危うさも考えます。

また、学校外の教育的活動と比べながら、今の学校や教師が実はかなり対話的で民主的な営みを重ねていることにも目を向けます。さらに、「研究者」と「実践者」を分けて考えるのではなく、大学の先生も学校の先生も、ともに実践し、探りながら教育をつくっている存在として見直していきます。

視点6 学校という場のしくみ・空間・ありかたを問い直す教育学

学校のしくみや空間、学びの順序を、子どもの経験から捉え直すものです。

学校には、時間割、学年、教室、学習の順序、評価のしくみなど、たくさんの「あたりまえ」があります。大人にとっては、それらは学びを支えるために必要なものに見えます。けれど、子どもにとっては、そのしくみや空間がまったく別の意味を持つこともあります。

ここでは、「学校はなぜそうなっているのか」「なぜ私たちは順序やしくみにこだわるのか」「その空間や制度は、子どもにどう受け止められているのか」を考えていきます。学習の順序や厳密さを大切にすることはもちろん必要です。ただ、その順序性が強くなりすぎると、標準的な道筋につまずいた子どもの可能性を、かえって狭めてしまうこともあります。学校のあたりまえを少しずらして見ながら、子どもの育ちにとってのしくみや環境の意味を考えていきます。

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