「ことばの力」を捉える教師の組織的鑑識眼

ある外国人生徒の日本語指導の公開研に参加。参加者の先生の質問で「日本語クラスへは診断テストのようなものをするのですか?」をめぐるやりとりが興味深かった。

「定期考査や,普段のやりとりから総合的に判断して,クラスの先生と共通理解をはかりながらやっています」という応えだったのだけれども,とても重要と感じた。

最近は言語評価ツールの普及の中で「本当は言語評価ツールを使うべきなんですけどね…」になりがちなのだけれど,一方でこうした先生方の専門性からくる鑑識眼(熟達した質的判断)は重要。

その鑑識眼が共有されていく中で子どもの力が捉えられてくることが,近年の言語評価ツールの整備と運用の中で忘れられがちにもなっている。

本来,教室の中には色々な「差」がある。その「差」を捉えながらうまく活用していくことで子どもたちの学びの重ね合わせにもつながってくる。別に完全に揃った言語能力の使い手が教室にいないといけないわけではなく,そこは本来は,「だいたいいけそう」くらいでいいところがある。

評価には当然,「妥当性」と「信頼性」の担保が重要となってくる。しかし,それはどのような妥当性と信頼性であるべきかはとても重要だ。最近は「エビデンス」ということばがあまりにも先に立つようになり,その妥当性も信頼性も「客観的」「厳密的」なものであることによって妥当さや信頼を得ようとする向きが強い。しかし,教育はそれでいいのかというもには常につきまとう。

今回の先生方のやり取りで見えることの大切な点は,ことばの力の判断は「言語的妥当性(言語学的な厳密さ)」以上に「教育的妥当性(教室の中でそれなりに参加できそうかどうかの有用さ)」で検討されるべきだし,その妥当性は客観的信頼性以上に,話し合いの中での主観と主観の間の中で共有される間主観的信頼性によって担保される必要があることを改めて思い起こさせられた点だ。

その点において,この学校の先生方の捉え方はとてもしなやかで,柔らかさをもっていた。

先生方が子どもたちのことばの力を捉える鑑識眼を信用していく方向はもっと大切にされていいし,言語評価ツールがせっかく普及していくなら,子どもの言語能力の厳格的測定以上に,むしろ教師の鑑識眼向上を下支えするツールとして捉えられていくといいよなあと思った。
とくに,歴史的にも日本語教育の評価は,テスト論を中心にした教育測定論との親和性が高く,かならずしも教育評価の観点から捉えて検討されてきていないからこそ,ともすると現場が研究者の依拠する測定論にまきこまれやすいのである。