カリキュラム学会発表おわり。
いろいろな質問をいただいて、「研究」としてどうしていくといいか、方向性が明確になった感じがします。
今回は一年間取り組んできた広域交流オンライン多文化共生授業を、多文化多言語の子どもたちの包摂の観点として「生態学的カリキュラム」から捉える試み。
一方で、この3年間くらい、カリキュラム研究として今回を通して思うのは、「多文化・多言語の子どもの包摂」をカリキュラムで行うとは、なにも特別なことをつくるのではなくて、僕は「ふつう」をつくること、それでいいと正直思っています。
急進的な社会変革的な取組でもなく、とはいえ何もしないでもない、ふつう。で、「ふつう」は、「明確な包摂のための教育目標づくり」で成り立つのではないのだと思う。そうではなく、それぞれが内容から、それぞれに値する意味を見いだすものだと、思います。(それが、実際のところは「目標」の名の下にうまくできなくなる)
もちろん、「ふつう」がうまく起きてないのであればそれは働きかけが大事になる。その点で広域オンライン多文化共生学習は、そうしたいろいろな環境にはたらきかける「フック」として各々が意味を見いだせればそれでいいし、そこにこそ可能性があると思うのです。(もちろんそれが唯一の珠玉ではない)
あとからいただいた質問のひとつに、「変更されたカリキュラムが子どもたちをある方向への価値へ押し付けてしまうリスクもないか」というのがありました。
これもとても重要な指摘だと思う。で、だからこそ「ふつう」は大切なのだとも。
あのオンラインの授業の重要なのは、「教科教育学の授業開発研究の手法」を使っているところにあります。
「教科教育学の授業開発研究」のいいところは、特定の子ではなく、みんなにとってそこそこ学べるものとして学べる塩梅のところを具体的に用意できるところです。
これがともすると急進的になったり運動的になったりしがちな多文化共生系の学習を、みんなが学べる「材」として、絶妙な「ふつう」にしているようには思います。
「ふつう」であることは大事なのだけど、みんなに「ふつう」を作ることはぼくらの「ふつう」をかたちづくるしくみをやっぱり見つめ直さないといけない。でも今日はそのヒントをたくさんもらえました。