教材研究文化,教師文化の面白さ

先日行った大学院の教師教育デザイン学プログラムの院生たちへの「学習開発学特論」の授業の担当の回,「自分たちが受け持つクラスの担任として,教科の担任として,子どもたちの中に外国につながる子どもたちがいるとしたらどうするか?」というテーマで授業をした。

往々にして外国人児童生徒の教育は「日本語指導の在り方」やあるいは子どものライフやキャリアの問題,学校づくり全体の話になるのだけれど,プログラムの特性もふまえて,「メインストリームのクラスで『授業』として何ができるか?」を検討する時間だった。

日本で提案されている日本語指導の応用,アメリカの多文化教育的な教材変革の試み,北米のトランスランゲージングをもとにした複数言語使用の権利拡張の試みを比較・分析しながら,インクルーシブとは何かを考えていったのだけれども,院生の反応がとっても興味深かった。

現職を含む院生たちがトランスランゲージングに可能性を感じつつもそれのみに拠らず,アメリカの多文化教育の教材変革の試みに魅力を感じながら,それを自分たちが得意な「教材研究」の土壌で「個に寄り添う,という姿勢は重要だけれども,視点が個に当たりすぎることで,問題が個にあると考えてしまう。社会に問題を見出し,みんなで学ぶ環境を作ろうとすることも重要なのではないか」(現職の院生さん談)という感覚で,教育の内容とテーマのありようの再検討を志向する解決方向性を出していた。

ここにはまだまだ日本の授業文化,教師文化の希望&面白いところがあると思う。

現在の外国人児童生徒をめぐる教育施策が「日本語の取り出し授業」に焦点化されることに際して,その懸念からくる対抗軸やオルナタティブは往々にバイリンガリズム,トランスランゲージングで語られることが多い。もちろんそれが重要なことをふまえつつ,他方で,日本の授業研究文化の土壌を考えたとき,院生たちが「教材研究」の土壌で解決を志向するところにはまだまだ日本の授業文化,日本の教師文化が持つ希望が見え隠れして,とっても面白いなとおもう。