うかれいちびりな先生ってあんがいいいよ

とある同僚が「教師をめざす学生がついつい頑張りすぎてつぶれちゃう」という話をしていた。そうなんだよねえ,と同意しながら思うのは,忘れられやすいけど「教師」の本質的なところで「ふざけ」「うかれ」「適当」「いちびり」「おもしろがり」ってのがあるよね,ということ。


若者が真面目化する時代にある。そんな時代の変化をいざ知らず,教員養成の大学の先生たちはさらに輪をかけて真面目なことが多い。

もちろんそれは誠実さゆえだとも思うけれど,時代を考えれば,ちゃんと誠実に「うかれ」「いちびり」の大切さを養成段階でみんなしてお伝えできてないのではないかって思うよ。(かつて,まだ20代の前半のころ,地域から「大変」と言われていた小学校の教員をしていたときの大先輩は「お,南浦サン,この学校のことがだいぶわかってきたやんか」と,よく職員室で教えられたのだけれど,それはどうもこのあたりだったよーな気がする)


とはいえ,僕は生来のお調子者だったかどうかはわからない。たぶん当たり前だけど真面目だと思う。
ただ,そこからどう余白を楽しんだり,ゆるみを楽しんだりできるようになったかというと,その転換のポイントは人生の中でいくつかありそう。

1つは,完璧主義の上の人がいることでまわりが汲々している世界の方がよっぽど不健康で進歩もないことを目の当たりにすること。もう1つは,わりとテキトーな自分の周りにも,そのテキトーだったりドジだったりすることがあるゆえに信頼してくれる人がいることに気づくこと。このあたりが自分としては,「あ,やめとこ」とがんばりすぎる何かが動きそうなときのストッパーになっていそうです。


「なにうかれとんねん」「なにいちびっとんねん」と教師や親はよく言うわけだけど,案外上に立つ人が誠実に軽薄に率先してうかれていちびることが必要な世の中かもね。知らんけどね。

気づけば研究室の窓から見える世界も,夏の雲。

*「うかれ」は浮かれ気味で軽薄なこと,「いちびり」はお調子者の目立ちたがり(「市振る」が語源らしい),どっちも関西弁ですね。でもリーダーシップをとるときに「いちびり」なことは割と評価されたりするのが関西だったり。