制度に対抗する運動と,制度を解釈する運用のはざまで─ことばと文化を包摂する教室づくりに向けて

8月後半,各地の研修。中でも「外国人児童生徒のいる在籍学級の中で何ができるか」というテーマの研修が数回オファーがあり,これはこれまでになかった傾向だった。


これまでこの手の研修は大抵「日本語指導・支援担当者向け」の「直接的に日本語指導をしている人に向けた研修」であることが多かったわけで,そうではなく「そうした子どもがいる学級や教科の担任に向けて」という形で管理職も巻き込んだ学校全体の研修というのは僕の中では珍しかった。

内容としていろいろとくふうをしていたわけだけれど,終わってみて改めて思ったのは,「日本語指導の方法」や「参加を促す方法」や「授業づくり」だけでは大きく変わることはないのではないかとということ。

もちろんそうしたことは大切なのだけれど,とくに中学校や高等学校の先生たち(いやまあ,小学校もか)に多いのは,そうした「教え方」への理解──「それはやりたい。躓く生徒を何とかしたい」という気持ちがあると同時に,「そうした丁寧な方法をしたらしわ寄せがくる」「中間期末テストをどうやって揃えるのか」「進学対策は」というところで,はたと止まってしまうことが多いこと。これは日本語指導者に対するものでもあるのだけれど,よりそれが強く感じられた。


そう考えると,「学校全体に対する研修」の場合,「授業づくり」だけではなくて,もっと制度へのアプローチ,とくに「評価」の発想や考え方についての研修がとても大事だろうなと思う。

ここでいう評価は,いわゆるDLAやJSLバンドスケールなどの子ども個人の言語能力評価のことではない。もちろんそれも重要だけれども,むしろ重要なのは,「学んだことの評価」「教えたことの評価」といった教育評価とカリキュラムの考え方,評価をすることと将来とはどのようにつながっているのかあるいはつながっていないのかという履修原理と評価の関係性や,説明責任に縛られすぎる教師の世界のときほぐし,こういうことがセットになっているかどうかということ。

そうしないと「一般的な教育の研修」とちがう「特別な子どもに対する多文化っぽい系統の研修」というレッテルは外れない感じがしてならない。


制度の入口がカリキュラムの目標や理念であるなら,制度の出口は評価。前者は特定の人しか携われないけれど,後者の評価は全ての人が実務で関わるからこそ,評価の発想が変わるとしくみも変わっていくかもしれない。しかし,しくみの重圧によって評価は変えがたい。すると,つまづきがちな子どもへの教育は,気になりながらもどうしても優先順位が下がってしまう。

だからこそ,同じ学校で今度は「教育評価」に関する研修もできるとありがたいと思う。


たしかに,ことばと文化の多様な子どもたちを包摂する教室や学校というのは,この社会の中でまだまだ厳しい現実がある。それをどうつくっていくかというときに,外国人児童生徒を包摂する教育を考えるとこれまで多く言われてきたことは「キーパーソンが重要」だった。ある学校内の特定の教員が奮闘することが結果的に全体を変えていくという,「社会運動モデル」的な発想である。

ただ,もちろんそうしたことはあるけれども,一方で,学校全体がチームとして変わっていくときには,制度の解釈のしかた,評価の捉え方,こうしたことを学校と行政が少しずつ捉えていけるようになることで全体が変わっていくような「制度解釈モデル」のような発想も今後必要なのだろうな。

現状という社会や制度的なものを変えていく方法はいくつもある。制度に対抗する運動的な発想もあるだろうし,重要だろう。しかし,一方で学校という社会制度の中にあるものを内側から変えるときには,実は私たちが絡み取られている「制度はこういうもの」というところの解釈自体をしたたかに豊かにしていくことで生まれるものもある。実際に,制度を解釈する運用の発想で学校が変わっていくことは,これまでも,歴史の中で何度も何度もあったことでもある。