前号・前々号の授業づくりネットワークの本は,2号連続で「揃わない前提の授業」をテーマにしていたから,余計にここに来て「一斉・説明中心の授業再考」がテーマになったのはしっくりくる。
つけくわえておくと,ここでの「再考」は「一斉・説明中心の授業を(もっと個別性のものへ,活動性のものになるように)再考する」という話ではなくて「一斉・説明中心の授業を(そこにあったはずのよさや可能性を改めて)再考する」という話だ。(と書いて「あれ,もしかしてどっちの意味も入っている?」となんとなく自信がなくなってきたのだけれど,主としてねらっているのは多分後者だ)
大学院生時代,おそらく日本でも屈指の「一斉授業の構造を具体的アイデアとともに開発していくことが黒帯の証!」みたいな大学院講座に所属していたこともあって,自分自身がどうあがいても,その訓練を身体化してしまっている僕。その点で,「そうそう,一斉授業にもよさはある。何だ最近の個別最適化って」と膝を打つことはたくさんあるのだけれど,それじゃあ自分事に過ぎる。
むしろそうした「個別最適化」みたいな流行語が登場し,そうした用語の担い手が対比的に「一斉授業」を手軽に気軽に「暗記中心・網羅主義」と貶めていくような二項対立論自体への「ちょっと待った」がこの本のキモだろう。
この対比の中で,確実に忘れれらていきかねない「一斉授業の中の遊び,好奇心,ワクワク」さらには教科の授業論だけじゃなくて,そこをふまえてつくていく学級経営や学校づくりの意味にまで入り込んでいる。
元同僚の大村龍太郎さんの記事なんかは,同じく教師教育を大学で行っている身からして,「あるあるな出来事」としてとっても共感した。また,たくさんの実践の話を読むことで,自分が最近(日本語指導に関する授業への関わりの仕事が多い分)十分に関われているとはいえない「みんなの教室」の風景を実感を伴いながら自分の身体に落としていくこともできた。
あえてちょっとモヤモヤしたことを書くとすれば,「一斉授業を再考する」という行為の中で,はからずもこの本には「先人の授業」がよく登場する。斎藤喜博,有田一正,築地久子,菊池省三……たしかにこうした方々は一斉授業を磨き上げていこうとした先人の名人だと思う。読者に「共有感覚」を持ってもらうためにも,こうした先達を挙げていくことが「一斉授業の価値」を再度つくっていく点で機能するのだとも思う。それはよくわかる。
ただ,一斉授業の価値を語る時に,私たち実践者の「模範」はこうした同じ顔ぶれの先達が並んでいくことでいいのだろうか,とも思う。
もちろん,ここに上がった人たちの名前は,その名前自体はむしろ表象で,その名に込めた「教育の価値」を読み取れる教師共同体の文化それ自体に意味があるのだと思う。(実際に,この本の中では「こういう先輩に教えられた」「こういう先輩がいた」「同僚がいた」という形で,名もなき教師がたくさん登場してもいる)
それこそが「ネットワーク」なのだということもできるし,その通りなのだけれども,私たちは「みんな同じ顔ぶれの人の話をする」ことからどう脱していけるのだろう──ということを,みんながやっているに違いない「一斉授業」の話だからこそ,ふと考えてしまった。